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歴史〜 HISTORY 〜
(トラックバック数:2651、ID:00023) ( 10月10日 15時29分 更新)



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東京国立博物館で上杉家三昧 [戦国カフェ から]
先日、東京国立博物館に出かけた。お目当ては上杉家伝来の能衣装と上杉太刀である。まずは上杉太刀と呼ばれる、「群鳥文兵庫鎖太刀」(ぐんちょうもんひょうごぐさりのたち) 銘一(めいいち) 総長113.0 刃長76.06 反り3.3cm鎌倉時代 13世紀 国宝下は、その「拵え」謙信が関東管領上杉憲政を庇護し、その家名を継いだ時、上杉憲政が代々秘蔵して来た逸品。鎌倉時代中期の作品で、作者不明。しかし福岡一文字派全盛期の優れた刀工が作刀したものである。兵具鎖の名があり、帯取に鎖を使用した太刀の総称である。この太刀は  続きを読む
Date: 2012-09-26 20:30 ID: 21158686

平清盛感想「殿下乗合事件」 [戦国カフェ から]
奥州の雄・藤原秀衡(ひでひら)が出て来た。後に義経をかくまい、奥州藤原氏のうち最も栄華を極めた第3代当主である。嘉応2年(1170)5月25日、藤原秀衡鎮守府将軍、従五位下となる。右大臣九条兼実は、夷狄(いてき・野蛮)だと蔑んでいた秀衡が将軍になることに、「乱世の基」と言い表している。しかし、当時奥州藤原氏のいた平泉は平安京に次ぐほどの規模を持って栄えていた。福原に清盛が招いた宋人に後白河法皇が会う。これにより日宋貿易が本格化している。宋人の商いの目的は、金である。藤原秀衡に金を貢納してもらい、代わりに将  続きを読む
Date: 2012-09-25 10:10 ID: 21153014

平清盛感想 「巨人の影」 [戦国カフェ から]
後白河上皇は、43歳で出家する。出家を執り行う僧侶はすべて、三井寺(園城寺・滋賀県)から選ばれた。これをよく思わないのが、三井寺とライバル関係にある延暦寺。嘉応元年(1169)12月、延暦寺の僧たちによる強訴が起きる。嘉応(かおう)の強訴と呼ばれるものである。平氏と後白河の対立が、院政後初めて際立った事件である。尾張の守藤原家教の目代(代理人)右衛門尉政友が美濃国平野荘の住人で比叡山延暦寺の油を専門に売買する日枝神人(じにん)を暴行する事件が起きる。右衛門尉(うえもんのじょう)とは右衛門府(律令制における  続きを読む
Date: 2012-09-18 12:03 ID: 21136642

平清盛感想「わが都、福原」 [戦国カフェ から]
病の癒えた清盛は、出家し福原(神戸市)に別荘を造営し移り住む。福原に目を付けたのは、古代から栄えた輪田泊(わだのとまり)が近く風光明媚だったことがあげられる。輪田泊(わだのとまり):後の大輪田泊、造ったのは奈良時代東大寺造営に協力した高僧、行基。清盛は早くからこの地に注目しており、福原の近隣荘園を、その持ち主たちと所領交換や寄進により獲得している。福原一帯の、平家の所領拡大に努めて来たのである。都から清盛が造営した厳島神社に向かう場合、途中大輪田泊(おおわだのとまり)を経由する。清盛が福原別荘造営してい  続きを読む
Date: 2012-09-12 15:04 ID: 21125232

塩沢牧之通り (新潟県南魚沼市) 三国街道塩沢宿と鈴木牧之 [おでかけたいむす から]
◎新潟県◎ 上州と越後を結ぶ三国街道、塩沢では当時の宿場町を彷彿させる町並みが再建されています。 牧之通りと呼ばれる通りの建物は雪国独特の雁木造りになっています。 商店街のアーケードのようなもですね。 両替商の建物は信用金庫 こちらは郵便局 ...  続きを読む
Date: 2012-09-05 22:08 ID: 21112783

平清盛感想「白河院の伝言」 [戦国カフェ から]
清盛の病、寸白(すびゃく、すばく・寄生虫の病気)、今昔物語など古典に時々出て来る。一方、後白河は背中の腫れ物、治療法などほとんどない時代、自力で直すか神仏への祈祷・陰陽師などに頼るしかない。清盛の寸白(すびゃく、すばく・寄生虫の病気)は、九条兼実の日記「玉葉」にも記録されている。病状は一進一退を繰り返し、清盛の病は天下の大事で、もし亡くなったらいよいよ衰退するか、と述べている。九条兼実は、藤原忠通の子で、基実(もとざね)や基房(もとふさ)の弟に当たる。(基実・もとざねの正室が、清盛の娘盛子)清盛に近しい人  続きを読む
Date: 2012-09-03 19:36 ID: 21108214

天目山・景徳院 (山梨県甲州市) 武田家滅亡の地 [おでかけたいむす から]
◎山梨県◎ 天正10年(1582年) 徳川・織田の連合軍による猛攻に耐えきれず逃避行を続けた武田勝頼ら一行でしたが天目山田野で自害、武門の名家であった武田家はついに滅亡した。 徳川家康が勝頼らを供養するために建てたのが田野寺です。後に勝頼の戒名である「...  続きを読む
Date: 2012-08-29 22:17 ID: 21099250

謙信公祭日記 [戦国カフェ から]
今年も行って参りました謙信公祭、14万人の人出だったそうです。春日山駅で武将と駅員さんにお出迎えを受ける。 右:なぜか春日山城下まで潜入している山本勘助。笑サインをしている、書いている名前はもちろん「山本勘助」。他に山県昌景や真田幸隆も。甲斐の武将もイケメン揃い、一見の価値あり。川中島で待ってろよ。笑戦国サミット・グルメ大会で義の塩アイスクリームや肉巻きおにぎり、焼きそば、お菓子などさんざん食べた頃、「いい加減、登城せよ。」とお屋形さまの声が聞こえた気がしたので、上杉会義太郎さまと登城。左上は、春日山城天  続きを読む
Date: 2012-08-29 20:02 ID: 21098951

平清盛感想「清盛、五十の宴」 [戦国カフェ から]
以仁王(もちひとおう)が出て来た。後白河院の第三皇子である。後白河の父鳥羽院の后、美福門院の娘・八条院を猶母(ゆうぼ、後見人)としている。以仁王、後に「以仁王の令旨」を出し、源氏に平家打倒の挙兵を促した人物である。令旨(りょうじ)とは皇族の出す命令文書。 以仁王は後白河の子に生まれながら、親王宣下を受けておらず、平滋子の妨害によって阻まれている。明治以前は天皇の子であっても、親王宣下を受けていない限り、親王とは認められなかったのである。清盛の末弟、平忠度(たいらのただのり)。著名な歌人であり、平忠盛と仙洞  続きを読む
Date: 2012-08-28 10:55 ID: 21095997

平清盛感想「百日の太政大臣」 [戦国カフェ から]
タイトル通り、清盛は100日余り太政大臣を勤め辞任している。齢50歳になり、翌年には寸白(すびゃく・寄生虫の病)にかかり、妻時子と共に出家している。健康不安があったのだろう。当時の50歳はもう長寿を祝う年齢である。時間を少し戻す。藤原摂関家の氏長者だった基実(もとざね)が死去。清盛の娘婿であり、政界の有力者だった基実の死は清盛の政界での立場を微妙なものにする。清盛が距離を置いていた後白河の院政が復活したのである。基実(もとざね)の子・基通(もとみち)はまだ子供なので、摂政は弟の基房(もとふさ)がなった。  続きを読む
Date: 2012-08-21 10:32 ID: 21082090

書評『ハプスブルクとオスマン帝国』 [同人作家の時事・歴史放談Blog から]
東京行きの往復と今日の暇な時間で一冊読み終えました。 ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明 (講談社選書メチエ)クチコミを見る 近世初期のヨーロッパは、ルネ ...  続きを読む
Date: 2012-08-17 01:25 ID: 21074103

平清盛感想「伊豆の流人」 [戦国カフェ から]
清盛と後白河が造営した蓮華王院(三十三間堂)には不思議な話がある。後白河上皇は頭痛持ちで、長年悩まされていた。熊野参詣の折に、権現様に祈願すると、「京の平等院の薬師如来に祈れ。」とお告げあった。そこで、薬師如来に祈ると、後白河上皇の夢に僧が現れてこう言う。「上皇の前世は熊野の”蓮華坊”という名の僧侶である。仏道修行により、天皇に転生した。しかし、前世の蓮華坊の髑髏が岩田川(和歌山県南部、現富田川)に沈んでおり、目の穴から柳が生えている。柳が水や風で動くと髑髏が動き、頭痛が起きる。」上皇は、早速岩田川の髑髏  続きを読む
Date: 2012-08-07 16:49 ID: 21056467

平清盛感想「平家納経」 [戦国カフェ から]
崇徳院、伸びた爪、血のり、夜叉のような髪、映像で見るとやはり凄まじい。ネズミがお膳のご飯喰っている…。圧倒されたので、日本で最も祟る怨霊となった崇徳院のお話をする。崇徳上皇は、鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれた第一皇子である。璋子が、鳥羽の祖父白河院と密通して生まれたと鳥羽が信じていたことは周知の通りである。ゆえに”叔父子”と呼ばれ、鳥羽から疎まれた。鳥羽が美福門院を寵愛してその子近衛天皇が即位し、近衛が崩御すると、今度は同母弟の後白河が帝位につく。崇徳は、高貴な身分に生まれながら、政治中枢から迫害され続け  続きを読む
Date: 2012-07-30 09:38 ID: 21040450

モムゼン「ローマの歴史 IV カエサルの時代」読了 [同人作家の時事・歴史放談Blog から]
約三ヶ月かけて、モムゼンの「ローマの歴史」の第四巻を読み終わりました。 モムゼンはドイツ人の古代ローマ史の学者で、ノーベル文学賞を取っています。 長らく邦訳がなく、ちゃ ...  続きを読む
Date: 2012-07-26 01:19 ID: 21032454

平清盛感想「滋子の婚礼」 [戦国カフェ から]
1160(永暦元)年、平清盛が正三位、公卿の地位に上った。武家として初めてのことである。清盛が勤めた、太宰大弐。公卿もしくはこれを勤めた者は、通常公卿になると言うポジションである。三位はある意味当然だが、清盛は朝廷政治の最高意思決定機関の「官職」、参議になりたかったはずである。清盛の願いはまもなく叶えられる。時の内大臣、太政大臣が逝去したり辞任したりして上層部に欠員が生じ、参議の職をうまい具合に手に入れている。 筆頭家人の平家貞や美福門院が亡くなる。家貞が食べていた、「唐果物」とは奈良・平安時代に唐から  続きを読む
Date: 2012-07-25 19:40 ID: 21031850

平清盛感想「友の子、友の妻」 [戦国カフェ から]
1159年12月27日、藤原信頼が六条河原で斬首された。清盛が世話になっていた藤原家成の子、成親は処刑は免れ解官のみ 義朝ら源氏は東国に落ちて行くこととなった。10人足らずで大原から近江に抜け東国での再起を図るつもりだったようだ。しかし義朝の次男・朝長(ともなが)は美濃国青墓で自害した。義朝は、郎党鎌田正清の舅、尾張内海庄司長田忠致(ただむね)の元に身を寄せた。しかし長田の屋敷が義朝と正清の終焉の地となってしまった。正清の舅、長田忠致(ただむね)は寝返り、翌年正月1か義朝を襲撃。義朝は、鎌田正清におのが  続きを読む
Date: 2012-07-17 20:55 ID: 21016152

平清盛感想「宿命の対決」 [戦国カフェ から]
藤原信頼は源氏と組み、まつりごとを担うつもりだったはずである。信西と平氏がタッグを組んで政治を動かた如くにである。しかし、信頼自らの政治基盤である後白河院を一本御書所に押し込めてしまっては元も子もない。二条天皇の側近たちも、政治的思想や政策で結び付いた関係ではないので、信頼が失策すれば直ちに離反する。私恨によって始めてしまった平治の乱は政治改革とは程遠く、出来た新政権もあっという間に瓦解する。一方清盛は用意周到で、非常に知恵を回す。天皇を質に取られた清盛は賊軍にならないよう、ひとまず信頼に恭順する。信頼  続きを読む
Date: 2012-07-09 20:53 ID: 20999628

平清盛感想「平治の乱」 [戦国カフェ から]
御所を攻めた信頼、義朝らの目的は信西を捕らえることである。しかし信西はいち早く宿にしていた姉小路西洞院を脱出していた。平治物語は、平治の乱と同時代ではなく後世に書かれた軍記物だが、凄惨な戦の有様を伝えている。女房達はあわて騒ぎ出てきた所を散々に弓で射られ、火から逃げた者は矢から逃げられず、矢から逃げた者は火から逃げられず、矢を免れんとした者は井戸に落ちたと言う。下は水でおぼれてしまい、人に押され、上は猛火で落命した。宮中の女性たちがここまで凄惨な仕打ちに遭ったのを思うと、信頼は信西だけでなく彼女たちに怨  続きを読む
Date: 2012-07-02 09:26 ID: 20984685

平清盛感想「見果てぬ夢」 [戦国カフェ から]
平治の乱の起因は、後白河の近臣の争いである。乱を書いた軍記物「平治物語」も、その近臣信西と藤原信頼の争いから始まる。信頼が、近衛大将になりたいと言ったところ、信西が異を唱えた。文にあらず武にあらず、能もなく、また芸もなし・・・が平治物語に書かれた理由である。この無能な信頼が異例の出世をする。藤原忠通(頼長兄)の子、慈円の遺した「愚管抄」によると、後白河の”あさましき程に御寵愛ありけり”が、無能な信頼を出生させた原因だと言う。後白河との男色関係を指すものである。藤原頼長がそうであったように、この時代取り立て  続きを読む
Date: 2012-06-25 22:36 ID: 20971952

清盛感想「清盛の大一番」 [戦国カフェ から]
保元の乱後の論功行賞で平氏は優遇され、源氏は十分な恩賞がない。平氏の軍事力は強大で、後白河側、崇徳上皇側どちらでも、平氏が付いた方が勝つという状況だった。朝廷も、作戦的には義朝の功績があるけれども、平氏が後白河側に付いたことで勝ったことを評価し恩賞を出さねばならないのである。平氏で、負けた上皇側に付いたのは清盛の叔父平忠正とその息子たちである。忠正らの領地は没収され、天皇の直轄地となった。一方親兄弟が上皇側に付いた源義朝は、親兄弟の死で広大な領地没収に遭い源氏としては大きく目減りしてしまった。清盛は叔父の  続きを読む
Date: 2012-06-18 21:34 ID: 20958211

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